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大阪地方裁判所 昭和55年(ワ)7329号 判決

原告

古寺康夫

右訴訟代理人

栗坂諭

山下更一

被告

住友生命保険相互会社

右代表者

千代賢治

右訴訟代理人

川木一正

松村和宜

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実《省略》

理由

一請求原因1ないし3項各記載の事実は当事者間に争いがない。

二そこで、被告の抗弁について判断するに、抗弁1記載の事実については当事者間に争いがないところ、被保険者である潤也に、本件事故発生につき、被告主張の免責条項に該当する重大な過失があつたか否かについて争いがあるので、考えるに、

1  当事者間に争いのない請求原因3項記載の事実に、〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

(一)  潤也は、事故当時二五才で、寝屋川市内の中華料理店「北京」にコックとして勤務していたものであるが、かねてから暴走族の者と交際していたこともあつて、自らも、その所有する普通乗用自動車(コロナマークⅡ。以下「コロナ」という。)の車輪タイヤを幅の広いものに変え、暴走用としていたこと、また、植森は、潤也とはいとこの間柄であり、事故当時二二才、近くの木材工場で雑役の仕事をしていたものであるが、事故の約三年間前サバンナを購入してからは、潤也同様タイヤを幅広のものに変えて暴走行為を行ない、その後、警察から注意を受け、暴走そのものは中断していたものの、人身事故を惹起し、道交法違反を重ね、昭和五四年六月二日には普通運転免許取消の行政処分を受けていたこと。

(二)  ところで、両名は、昭和五五年三月ごろ、潤也において、植森を暴走行為に誘つたことがきつかけとなつて急速に親しくなり、月に二回程度の割合で、土曜日の夜、一緒に暴走行為を楽しむようになつたところ、コロナでは、パトカーの追跡を受けたとき、急速な加速が構造上むずかしいため、検挙されかねないとして、サバンナを交互に運転して暴走を行うこととしたこと、その後、同年六月になると、潤也は、単独の暴走では満足できなくなり、植森のほかに、一六、七才の未成年者を主に集めて暴走族グループを結成し、その名称を「ブルー」として、自らは会長となつたうえ、さらにこの「ブルー」をより大きな暴走族グループである「日韓連合」に加入させ、本格的な集団暴走行為をはじめるようになつたこと、そのため、潤也は、「ブルー」会長として、その指揮に当ることを理由に、サバンナの運転は行わず、これを植森の担当とし、自分自身は助手席に同乗する形をとるようになり、同車の運行に要するガソリン代の半額も、以来負担するようになつたこと。

(三)  同年七月五日午後一一時過ぎごろ、前記「北京」に集合した「ブルー」のメンバーは、いつものとおり、潤也の指示に従い、森田政俊、中道和人、田辺吉正の三名が、植森が運転し、潤也が助手席に同乗するサバンナの後部座席に、他の者が別の乗用車にそれぞれ分乗し、メンバー外であるが、植森の誘いに乗つた乗用車一台も加わつて、計三台で、「日韓連合」の他のグループの集結する外環状線六万寺交差点に向つたこと、そして、翌七月六日午前一時過ぎから同日午前三時過ぎまでの間、同所に集つた乗用車二〇数台、単車約三〇台の大集団に、潤也らの三台も加わり、各所において暴走行為を繰り返した末、同日午前四時過ぎ解散するに至つたこと、しかしながら、潤也は、なお暴走を続行しようと、他グループに同調を求め、結局、乗用車三台、単車四台のグループにサバンナを加えて暴走を再開することとし、植森に対し、「もうちよつと走るぞ」と申し向けたうえ、他グループ三台の乗用車の後にサバンナを追走させるよう指示したこと、こうして、サバンナを含む一団の車両が暴走をはじめ、同日午前四時五〇分過ぎごろ、大阪市東成区大今里南一丁目一番一号先今里交差点(別紙図面参照)に東側から差しかかつたところ、折から暴走族特別取締りに従事していた大阪府警察本部交通部交通機動隊所属の警察官らに発見されたが、その場は、パトカーの発進が手間取つたこともあつて追跡を免れ、難なく同交差点の赤色信号を無視したまま通過していつたこと。

(四)  ところが、潤也らの一団が、別紙図面のとおり、玉津三丁目交差点、中道交差点を経て、玉造交差点を東から北に向け右折しようとしたとき、同所に先回りしていた前記府警交通機動隊の三台のパトカーに発見、追跡され、うち一台のパトカーが、三人乗り単車の後尾に追いつき「前の単車止まれ、暴走行為をやめ停止せよ。」との警告をマイクで繰り返し、検挙する態勢に入る状況に立ち至つたため、潤也は、植森に対し、「トシ逃げ」とサバンナの加速を命じたうえ、右パトカーの右側方を通過する際、助手席側窓を開けて木刀を振り回して、パトカーの進路を妨害したりしたこと、そして、サバンナは、他の三台の乗用車が別紙図面の森之宮交差点を左折したのとは逆に、単車とともに赤信号を無視して右折し、中央大通りを東方に時速約一〇〇キロメートルの速度に加速し、次々と赤信号を無視しながら逃走を企てたこと、そして、サバンナが別紙図面の深江橋交差点近くに差しかかつたとき、潤也は、植森に対し、パトカーの追跡を振り切るべく、他の単車の進路と異り、「左に曲れ」との指示を与えたこと、そのため、植森は、左にハンドルを切つて、同交差点を左折し、中央内環状線を北進しようとしたが、スピードが上がり過ぎていたため、曲り切れず、内環状線の南行車道(内環状線は、帯状の中央分離帯により、南北各行車道に明確に区分されている。)に入り、そのまま北進することとなつたこと、この間パトカーは、四、五〇〇メートル引離されながらも追跡中であり、植森自身も、そのサイレンの音を聞きながら走行していたこと。

(五)  かくして、植森は、サバンナを時速一〇〇キロメートルを優に上回る速度で運転し、前記南行車道の西側車線(南行車道は、本件交差点南側では、いずれも幅員3.1メートルの東西二車線に分けられている。なお、最高速度は、時速四〇キロメートルに制限されていた。)中央寄りを北進し、諏訪三丁目交差点(本件交差点の南方約五〇メートルに位置する。)の南方約九三メートルの地点に差しかかつたとき、同交差点及び本件交差点の信号が赤であることを確認したものの、そのまま諏訪三丁目交差点を通過し、さらに、本件交差点南方約四五メートルの地点でも、赤信号を認めたが、これを無視して、本件交差点に進入する直前、交差道路右方から、青色信号の表示に従い進行中の森脇車を自車右斜前方約一六メートルに発見し、必死にハンドルをやや左に切りながら、急制動に及んだが、及ばず、自車右前部を森脇車左前部に衝突させたうえ、なお約一八メートル逸走させて交差点北側中央分離帯南端のコンクリート台に激突させ、さらに、交差点北側南行車道を約二〇メートル北進して横転転覆させたこと。

(六)  一方、森脇は、森脇車を運転して本件交差点に東側から接近したとき、対面信号が赤色であつたので、停止線に一旦自車を停止させたこと、しばらくして、信号が青に変つたので、交差点を右折すべく、交差点北側の内環状線南行車道に注意を払いながら、交差点に進入したところ、思いもかけず、交差点南側の内環状線南行車道を逆に北進して交差点に突入してくるサバンナを発見し、急制動に及んだが、及ばず、前記(五)認定の状況下で、同車に衝突されたこと。

以上の事実が認められ、〈証拠判断略〉。

2  前記1記載の認定事実によると、潤也は、単に植森の運転する自動車に乗り合せていたというようなものではなく、その運行を指揮しあるいは統御すべく同乗していたものといわねばならないから、植森の運転に対し、これを制御し、適切な指示、注意を与えて事故の発生を回避し得る立場にあつたといえるにもかかわらず、府警交通機動隊のパトカーから追跡を受けるや、植森に対し、現実には交通規制の一切を無視するのでなければ果し得ないと考えられる逃走の指示を与え、現に、制限速度をはるかに上回る速度で、しかも、南行車道を逆に北進し、信号規制を全く眼中に入れないといつた誰の目にも明らかな、危険極まりない運転を、何ら統御することもなく、これに身を委ねたことが認められるのであつて、これらの点からすると、本件事故発生については、潤也に重大な過失があつたことは明らかであるといわねばならない。

従つて、潤也の本件事故による死亡は、被告主張の免責条項に該当するものといわねばならない。

なお、原告は、本件事故発生につき、森脇にも過失があつたかのように主張するけれども、これを認めるに足りる証拠はないのみならず、前記1の(五)及び(六)において認定したとおり、森脇は青信号に従い南進車両に注意を払いながら、本件交差点に進入したものであつて、このような場合にまで、制限速度を六〇キロメートル以上も上回る高速で赤信号を無視し、しかも南行車道を通行区分に反して北進する車両の有り得ることまで予測して、左方の安全を十分確認し、徐行すべき注意義務を負うとすることは難きを強いるものといわなければならないから、同人には、過失はなく、結局原告の右主張は採用できない。〈以下、省略〉

(弓削孟 佐々木茂美 長久保守夫)

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